流れ 2010年9月号 目次
― 特集テーマ: 環境流体 ―
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黄砂が運ばれる空
岩坂泰信 |
はじめに
我々はさまざまなところで空気を利用している.パソコンのファン,自転車の空気入れ,・・・.こんな時,空気とは‘空気分子という仮想的分子からなる気体’あるいは‘窒素と酸素から出来ている混合ガス’とするのが普通である.それで充分という言う分野もあるが,そんな単純な想定ではお話にならないと言う分野もある.早い話,天気予報では空気中の水が極めて重要で,「空気中に水分子が存在することで生じる多様なプロセスをどのように取り扱うべきか」は,現在も重たい課題なのである.この小論では,空気中に浮遊する黄砂粒子が,我々の空気を見る目をどのように変えてきたかについて考える.
黄砂粒子が世の関心を引いた時期が何回かある.戦後の日本復興時に電力需要が急増した時,高度成長期に電子関連産業が急成長した時,そして地球環境が話題になっている現在である.
電力と黄砂
戦後復興期のエネルギー供給は水力発電によっていた.電力会社は競って発電用ダムを建設し急増する電力需要に応えようとした.さらには,ダムに積極的に水を蓄えるべくダム湖上流域に人工的に雨を降らすことを考えた.雲の形成や降水のメカニズム研究が急速に発展する中で注目を集めたのが黄砂なのである.
雲は雲粒と呼ばれる微小水滴が集まって出来ている.雲粒の典型的な大きさは数10μmである.雲粒は大気中に浮遊する1μm以下の粒子が種になって成長したものである.雨粒になるにはさらに成長することが必要で,雨粒形成には氷粒(氷晶)が大きな役目をしている.雲粒や氷粒の成長の種になる粒子の実態は現在でも明らかではないが,黄砂は早くから注目されていたのである.日本上空で採集される黄砂粒子は,概ね数μmからその10分の1程度のサイズで,様々な鉱物の混じったものである.このようなサイズの鉱物質の粒子を,土壌学,地質学,鉱物学,土木工学,その他の分野では,粘土あるいは粘土鉱物と呼んでいる.粘土とは文字通り粘り気のある土を意味し,水分を含むと大きな粘性を示す.このような性質は,黄砂と水との特別の関係を暗示している.
粘土の構造は個々には極めて複雑であるが,層状珪酸塩(layer silicate)を主成分とするものは比較的よく研究されてきた.電子顕微鏡で見ると,シート状のものが何枚も重なったように見える.シートの構造・組成の違いやシートが組み合わさった複合構造の違いよって細かく分類されている.それらの中でカオリン鉱物を主成分とする黄砂が効率よく氷晶を成長させることがわかり,「偏西風に乗ってやってくる空気には雲を作り雨を降らす能力の高い物質が含まれている」という見方が生まれたのである.
反応する黄砂,反応する大気
1970年代,半導体産業が日本の高度成長の主役となり,各地に半導体工場が建設されるようになった.この頃,不良品の歩留まりの悪い工場の立地環境が関係者で話題になった.地域でいえば西日本,時期でいえば春なのである.当然,黄砂に関心が集まった.空調用に引き込む外気からの混入が疑われ,取りいれ口のフィルターの改良が盛んに行われた.一定程度の改善は見られたが限度があった.やがて,フィルター上に残った黄砂の表面反応で2次的に発生するガスの工場内への流入が製品に悪影響を及ぼすのではとされるようになった.
研究費の規模が徐々に大きくなり,大学でも航空機を使った黄砂観測がなされるようになった.果せるかな,汚染気体で汚れた黄砂が日本上空で見つかったのである.図1の2枚の写真は,当時の航空機で採集された黄砂の電子顕微鏡映像である.左の写真は,真空蒸着で作ったカルシュウム薄膜の上に採集された黄砂粒子の映像で,黒い不定型部分が黄砂である.周辺には黄砂から染み出た溶液のにじみが映っている[1].
カルシュウムの薄膜は,Ca2++SO42- CaSO4 を利用し黄砂中の硫黄酸化物の有無を見るために用いられた.写真では,にじみの外縁近くに6か所(人によっては7か所)やや暗い部分が認められる.もう少し硫酸イオン濃度が高ければこの部分を中心に硫酸カルシュウムの微結晶が明瞭に析出していたろう.高度4km近くを浮遊する黄砂がヌレを生じていたことや,その水溶液に硫酸イオンが含まれていたことが知れるや,多数の化学者がこの分野に参入してきた.右の写真は,カルシュウム膜の上に採集された黄砂の電子顕微鏡写真で,照射する電子線のエネルギーを上げると図中Dの粒子は2つの粒子がくっついていたものであることがわかった.2つの粒子をくっつけていた物質は不明であるが,微生物由来のものではないかとする見解が最近出てきた.
図1 日本上空で採集された黄砂の電子顕微鏡写真
1970年代の末,中国の重工業が稼働し始める.深刻な公害を通して,空気が反応性の高い(=人体影響が大きい)汚染物質を運ぶことを学んだ日本人にとっては,‘偏西風と中国の重工業化の組み合わせ’は何とも不気味なものと映った.この時期,大気がさまざまな反応を伴いながら移動している物体であるとの認識が深まったと言える.
図2の人工衛星(SeaWiFS,もともとは海色観測が目的)写真は,黄砂の一つのタイプの特徴をよくとらえている[2].黄砂の発生プロセスは二通りあり,ひとつは図2のような低気圧活動によるものであり,他の一つは乾燥地域の組織的な局地的循環によるものである.後者は,バックグランド黄砂と呼ぶ現象の大きな原因になっている[3].なじみのものは前者であろう.低気圧に伴う強風によって砂塵が巻き上げられ,砂塵雲は低気圧と一緒に移動する.
低気圧は広範囲の空気を巻き込みつつ偏西風で運ばれる.移動経路上の汚染大気や海洋起源の飛沫なども巻き込み時には10kmほども吹き上げる.図2にはNASAで同定された‘都市部からの汚染ヘイズ’(日本海上空のもやった部分)や‘森林火災による煙’なども示されている.これらが混じり合い時に反応しあって地球上を回っているのである.
図2 人工衛星によって捉えられた黄砂の映像(NASA提供)
移動する微生物
数年前に「ダストが観測される時に大気中の微生物濃度が上がる」とする論文が出て大きな関心を呼んだ[4].微生物が長距離移動する時にダスト粒子を利用している可能性は高く,研究は「だからどうなのか?」と「どうしてそうなのか?」も含めて急速に広がりを見せている.後者の疑問については「黄砂が微生物にとって良きcarrier(担体)である」との考えは,種々の点で魅力がある.黄砂に付着することで紫外線や乾燥などのストレスを低減できる可能性があるからである.図1の右の写真は,今では2つの粒子をくっ付ける糊の役目をしていたのは微生物(または微生物起源物質)であろうと想像される.図3は,表面に微生物を持った黄砂が敦煌上空で見つかった例を示している[5][6].タクラマカン砂漠の東縁部に位置する敦煌市で行った気球観測(2007)では,海抜1900mで黄砂採集が行われた.DNAに特異的に結合する染色剤(DAPI) を使って黄砂粒子を染色し,落射型蛍光顕微鏡で観察した映像を調べると,いくつかの場所に蛍光の強いところがあり,この場所に微生物がとりついていたと考えられる.
図3 敦煌上空で採集した黄砂の蛍光顕微鏡画像
むすび
自然大気中の物質(さらには微生物)の拡散現象は,ミクロンスケールからメソスケールと呼ばれる100kmから1000km規模にわたって,種々の過程が結び付いている.統合的な理解は望むべくもないが,どの規模の現象を見るにしても様々な規模の現象が重層的に絡んでいることを想定しながら研究することが大切であろう.同様な視点はヨーロッパなどでも強調され,興味深い観測がサハラ砂漠で行われている[7][8].
参考文献