流れ 2014年1月号 目次
― 特集テーマ:流体工学部門講演会 ―
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伊都キャンパスと伊都国
西谷 正 |
邪馬台国や卑弥呼のことが記載されている中国の「魏志倭人伝」には、伊都国が登場する。
それによると、西隣りの末盧国から東南に陸行すること5百里で伊都国に到る。ここには、官と副官がいて、千余戸ある。代々王がいて、皆女王国に属している。中国・魏の帯方郡からは外交使節が往来するときは、いつも伊都国に滞在する。また、別のところでは、伊都国には、特に、一大率と呼ばれる女王国から派遣された地方官がいて、周辺の国々を監督しているとも記している。このように、伊都国は、女王国つまり卑弥呼の邪馬台国にとって、外交・内政上の重要な役割を担っていたのである。その意味では、400年以上後の大宰府にも通じるところがあるわけである。さて、九州大学伊都キャンパスの呼称は、この伊都国に由来するように、伊都国の所在地は、福岡県糸島市付近に考えられている。
B.C.1世紀ごろの漢の時代に成立した伊都国は、A.D.3世紀前半ごろの魏の時代へと存続したが、その時代の考古学上の遺跡は、糸島市内に数多く残っている。
まず、国邑すなわち首都に当たる遺跡は、三雲・井原遺跡であり、南北約1km、東西約700mにまたがっている。この規模の大きさは、佐賀平野の吉野ヶ里遺跡に並ぶものである。
遺跡の南端は付近に位置する三雲南小路と井原鑓溝、そして東側の丘陵地に立地する平原といった墳墓からは、大量の中国製銅鏡をはじめとする副葬品が出土し、伊都国の王墓群と評価されている。このことは、「魏志倭人伝」に見える、伊都国には歴代王がいたという記述と符合する。
弥生時代後半期に当たる伊都国は、3世紀中頃以後、古墳時代言い換えると、ヤマト王権の時代に入ると、伊覩縣と呼ばれたようである。それがさらに、8世紀の奈良時代以後、明治時代の19世紀末まで一貫して怡土郡と呼ばれた。そして、明治29年(1896年)に、怡土郡と志摩郡が合併して糸島郡となり、最近まで続くことになった。
ここで、怡土郡の地方、志摩半島に当たる志摩郡は現在、糸島市志摩町と福岡市西区に該当する。その志摩郡は、怡土郡と同じように、8世紀の奈良時代における嶋郡あるいは志摩(志麻)郡にさかのぼる。さらに、古墳時代には、斯摩(志摩・嶋)縣(アガタ)と呼ばれたようである。このように見てくると志摩の地域に、「魏志倭人伝」に見える斯馬国を想定することが可能になってくるのではなかろうか。つまり、伊都キャンパスの土地は、伊都国ではなく、斯馬国の故地である可能性があるわけである。ちなみに、志摩町は、青銅器を出土する弥生時代の首長墓、大規模な拠点集落や、古墳時代初期の前方後円墳など、遺跡群の豊庫でもある。
ところで、伊都キャンパスの地は、ポスト邪馬台国の時代の遺跡群の所在するところとして、全国的に知られている。まず、古墳時代後期の6世紀後半ごろの元岡・桑原古墳群は、当時の親族・家族構成を解明する上で重要である。一方で、日本最古の戸籍といわれ、正倉院に保管されている大宝2年(702年)筑前国嶋郡川辺里の戸籍の舞台でもある。ここにおいて、考古資料と文献史料の接点があり、両者を合わせて古代の社会構造の解明に資することができる。また、元岡G6号墳からは、庚寅という干支年号はじめとする19文字を金で象嵌した鉄製大刀が出土し、570年という年代が与えられた。中国の暦の日本における最古の使用例として注目されている。
さらに、伊都キャンパスの用地では、開発工事に先立って行われた発掘調査によって、鉄・鉄器生産の大規模な工房跡が見つかったほか、亙の窯跡も検出された。ここで生産された製品は、大宰府と、その関連施設である鴻臚館や怡土城に供給された。そのように、伊都キャンパスの地は、古代の大宰府のハイテクランドでもあったのである。
糸島地方の地形略地図