流れ 2008年9月号 目次
― 特別寄稿:「紫綬褒章受章に思う―私の歩んだ流れ研究の道」 ― ― 特集テーマ:「高クヌッセン数流れ(希薄気体流れからマイクロ気体流れまで)」 ―
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紫綬褒章受章に思う ―私の歩んだ流れ研究の道―
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「流れ」は不思議な現象である.形が自在に変化し動いて行くのが流れであるが,流れは,人の心を揺さぶる.平安時代,貴族達は,寝殿造りの庭園に遣り水といわれる流れを配した.彼らの美意識と感性が,身近に流れを置くことを要求したのである.およそ900年前の平安時代後期に作られた源氏物語絵巻が,最近,美しく復元模写されたが,第38巻「鈴虫」では,女三の宮の住まいの前庭の遣り水が,人の手になる野の風情を一層深めている(1).
流れはまた,うつし世に身を置く鴨長明の心のうちに,流浪と無常を呼び起こした.
ゆく河の流れは絶えずして,しかももとの水にあらず.淀みに浮かぶうたかたは,かつ消えかつ結びて,久しくとどまりたる例なし.世の中にある,人と栖と,またかくのごとし.
この名文は文学として読むべきであろうが,驚くほど正確に「乱れた流れ」の本質を流体力学的に述べている.レオナルド・ダ・ビンチが最初に流体力学,特に渦に関心を抱いたとされているが,その400年前にすでに長明は,流れの流体力学的本質と,流れの,人の情への作用に気づいていたのである.
なぜ流れは人の心を揺さぶるのか? 流れの本質は,自由,流麗,変幻自在,混沌,無常,不可逆,凶暴である.これは,人間の人格の構成要素そのものではないか.私も流れに心を奪われ,40年あまりが過ぎた.しかし,「流れ」との最初の印象的な出会いは,さらに小学3年時にさかのぼる.そのころ私は,金沢市郊外の河北潟に近い千田という村に住んでいた.村では,子供が一番好む遊び場は川の中であった.川がなによりも好きだった私は,学校が終わると,川の中を歩いて下流にある我が家にたどり着いたこともある.途中で川岸の草の上にかばんを放り投げ,魚を追い,また,「おろ」に肩まで腕を突っ込み,蟹やなまずを捕まえた.「おろ」とは,川岸に手で掘った穴で,蟹や魚がいい隠れ家を見つけたと思い,ここに誘い込まれる.
5月の川は水かさが多く,流れも速い.田んぼに水を引くためである.川下を見ると,水の上で竹竿が揺れていた.不思議に思い,水を蹴たてて近づいた.川底に突き刺された竹竿が規則的に首を振っていた.しばらく眺めていたが,どうにも訳が分からない.竿は流れに直角方向に揺れていた.手で竹竿の振動を止めても,放すとまた揺れ出した.帰宅してばっさまに訊いたが,分からないと言う.
原因不明のまま,流れの中で振動する竹竿の光景が脳裏に焼き付いた.大学3年になり,流体力学の講義を聴いていたら,初めて,遠い日のあの竹竿の振動が,カルマン渦によるものだと気づいた.
本稿では,私と流れとの出会いを気の赴くまま綴り,紫綬褒章受章の功績がどこにあったか,思いめぐらして見たい.
金沢大学工学部機械工学科では,流体工学講座で卒業研究を行なった.講座のゼミでは,流体力学の英文テキストを輪読した.この時,方程式に支配される「流れ」という現象を美しいと思った.
東北大学大学院では,指導教官伊藤英覚先生の下,「管軸に直交する軸の周りに回転する直管内の流れ」を研究した.飛び出す前の竹とんぼの羽根を回転直管だと思えばいい.修士課程では,理論解析と実験装置の設計を行なった.ポールハウゼンの境界層積分式を,手回し計算機で毎日解いていたが,1965年に電算機の1号機が導入され,飛びついた.手回し計算機で1ヶ月かかる計算が,15分で終わった.革命的な機械であった.伊藤先生に電算機の結果を信じてもらうまで,しばらくかかった.
博士課程では,毎日実験に明け暮れた.大学院の五年間,伊藤先生から研究者のあるべき姿を学んだ.博士研究に対しASMEからMoody賞が授与された.日本人が日本で行なった研究では初めてのことだった.
学位取得後,講師に任用された.伊藤先生から,博士研究を継続するよう持ちかけられたが,断った.博士研究は完成度が高く,大事な問題はすべて解決していたからである.研究は,未知が待ち構えていてこそ,意欲が湧く.やればできる研究は性に合わない.また,当時の高速力学研究所では,創立者,沼知福三郎先生の英断により,学位を取った講師は独立することが,研究体制上許されていた.ただこの体制をそのまま盾に取ったのは,私だけであった.
伊藤先生から独立した私は,首をかけて勉強した.自分だけの力で海外の一流の学術誌に掲載される論文が書けなければ能力がないということであり,大学に残るのは人生の無駄と考えていた.初めての論文が,Int. J.Heat and Mass Transferに掲載された時は,嬉しかった.その後も,欧米の学術誌に次々に論文を載せた.しかし論文はすべて層流の問題を解いたものであり,「流体力学の落ち穂拾い」をしている自分に嫌気がさした.
流体力学の難問中の難問「乱流」に挑んだ.乱流の研究者,古屋(名大)にも触発された.日夜,わき目も振らず論文を読んだが,なんのひらめきも浮かばない.歯が立たないと思った.Prandtl, von Kármán, G. I. Taylorでさえ,1歩しか踏み出せなかった乱流である.弱気になった.また,物理学全体の中で乱流は地味に思われた.論文0で乱流から撤退した.
次に,神元(京大)に触発され,高温気体に興味を抱いた.私は,英国留学後研究分野を一変していた神元を尊敬していた.高温気体関係の論文を読み出すと,この分野の研究には,量子力学の学力がいると分かった.学生になったつもりで,物理学科で使っている量子力学,電磁気学,古典力学,量子化学の教科書を丹念に読んだ.物理学の体系は美しく,おもしろかった.研究者にとって,どの学科で学んだかはどうでもよいことである.必要な学問は自学自習すれば身につく.
神元らの分子振動緩和の研究ではなく,緩和の原因である分子間非弾性衝突を,シュレーディンガー方程式を解くことにより研究した.J. Chem. Phys. の3編など,この分野でまともな論文が書けるようになった.勤務先の高速力学研究所の研究領域から大きく逸脱していたが,研究所創立者の沼知先生は温かく見守ってくれた.ある朝,J. Chem. Phys. に載っていたSecrest の回転励起の論文を読んだ私は,ショックを受けた.彼は,a priori potential を用いて励起断面積を求めていた.非弾性衝突の研究は,Secrestのアプローチが主流になると直観した.a priori potential は私にも計算できるが,退屈な計算である.そんな退屈で面倒な数値計算はやりたくなかった.撤退を決めた.
新しい道を探していたら,藤本(名大)の機械学会誌の解説記事に釘付けになった.藤本は,BGK方程式と希薄気体について解説していた.読んでいるうちに引き込まれた.
1967年にアポロ11号の月面着陸を果たしたNASAは,70年代に入っても希薄気体力学の研究に多大の関心を寄せていた.基礎式はボルツマン方程式である.シドニー大学のBirdが1976年にDSMC法という希薄流れ解析法に関する本を出版したことから,彼の解析法はブームとなり,この方法でいろんな流れを計算しただけの芸のない論文が,雨後の竹の子の様相を呈していた.隔年開催の国際希薄気体力学シンポジウム(RGD)では,Birdは,神様扱いされていた.しかしBirdの主張にもかかわらず,私は,彼の解法はボルツマン方程式とは関係のない数値実験にすぎないと見ていた.後で知ったことだが,カイザースラオテルン大学数学科のBabovskyとNeunzert, ソ連科学アカデミーのYanitskyとIvanovも,私と同じ疑問を抱いてボルツマン方程式の解法を作ろうとしていた.
私は,ボルツマン方程式の真の解法を作ることに専念した.この時(1979年),私は36歳になっていた.この頃は,論文を書けないかもしれないという強迫観念はなく,Phys. Fluidsに載る論文ぐらいなら,その気になればいつでも書けると思っていた.これまでの研究にもそれなりの喜びはあったが,大した研究ではないことは自覚していた.もしボルツマン方程式の解法を発見できたら,今までにないとてつもない喜びを味わえると思い,研究を始める前から熱くなった.
研究は先の見えない仕事である.終着駅を目指して走っていても,駅すら見つからず,すべてが徒労に終わることもある.「それならそれでいい.とにかく目いっぱいやってみよう」と,私はいつも楽天的である.挑戦しているだけで,期待に胸がふくらみ幸せではないか.
日夜,ボルツマン方程式をもてあそんだ.まず,連続関数である速度分布関数を,そのランダムサンプルの集合からなるデルタ関数の和で表現することを思いついた.簡単にいうと,百人の学生がいたら百通りの成績しかなく,この成績分布を滑らかな曲線にしないでそのまま用いるのである.デルタ関数の和をボルツマン方程式の衝突項に代入して変形を楽しんでいたら,衝突項の5重積分が美しい形を現した.研究が最難関を越えたのだ.歓喜のあまり叫びたい衝動にかられた.しかし真夜中の2時,妻子には迷惑なことであろう.黙ってひとり喜びに震えた.
翌朝,魂が舞い上がっていた.古い自転車で大学に向かったが,車にはねられそうになった.目が開いているのになにも見えていなかった.信号無視をしたのだ.危ないので歩道を走った.ドスンと衝撃を受けた.気がつくと,車道に落ちていた.
心踊るこの自信作は,散々な目に会った.学会で発表したら,ある人が演壇に詰め寄り「止めろ」と妨害した.座長が見かねて,「講演者には発表する権利がある」と彼をたしなめた.引き下がった彼は,休憩時間に私を批難するビラを撒いた.
自信を持って米国のPhys. Fluidsに投稿した.レフリーが難癖を並べ立てた.レフリーがpeculiar velocityという言葉も知らないのにあきれ,「こんな男と押し問答している場合じゃない」と,論文を取り下げた.とにかく早く論文を出版したかった.今度は,日本物理学会のJ. Phys. Soc. Jpn.へ投稿した.レフリーが言いがかりを並べ立てた.さらにレフリーは,私の研究に関係のない自分の論文を十数編引用するよう要求した.物理学会の「レフリー忌避制度」を初めて用い,レフリーの交代を要求した.新しいレフリーはようやく掲載可としてくれた.いま思うに,当時,日米の希薄気体の研究者はBird法を用いて希薄気体の解析をしており,Bird法に疑問を投げかけた私を徹底的に叩こうとしたようだ.
私の,ボルツマン方程式の解法を導いた論文(2)は,1980年,37歳のとき発行された.すぐさま,ドイツ,ロシア,イタリアが高い評価を下した.1982年に日本で開催されたRGD13(第13回国際希薄気体力学シンポジウム)で,海外から私に招待講演をさせるよう提案があったが,日本の組織委員会は,「南部はまだこの分野の新参者」という理由で拒絶した.2年後のRGD14はイタリアが主催したが,そこで私は1時間の招待講演をした.
この1980年の論文は,私の260編あまりの論文の中で,引用数が飛び抜けて多い.海外で出版された希薄気体に関する7冊の専門書(3)にも,「Nanbuが世界で最初にボルツマン方程式の解法を導いた」と書かれている.文部科学省が私の1980年の論文の式(26)に多大の関心を示したことから,この研究が紫綬褒章受章の中心的功績かと思われる.
好事魔多し.37歳の研究で世界的な名声を博した私は,この研究の派生研究や応用研究に満足し,いつの間にか論文を乱発して喜んでいた.しかし,46歳のとき,「独創性に欠けた,やれば出来る研究しかしていない」と気づいた.強い挫折感にとらわれ,自信を喪失,無気力人間になった.一時期,死のうと思ったこともあった.幸運にも,この頃私は,ソ連科学アカデミーついでフランスのピエール・マリーキュリー大学へ招聘され,ひとりになって自分の姿を凝視する機会を与えられた.そして,恩師伊藤英覚先生と袂を分かった時のあの挑戦する心を,今の自分は失っていると気づいた.
もてはやされていい気になって過ごしていた竜宮城(希薄気体)を出た私は,必死になって新しい挑戦相手を探し,ついに半導体産業の発展に寄与できる「プロセスプラズマの研究」を相手に選んだ.浦島太郎は50歳になっていたが,勉強は楽しく大学院生に戻ったような気がした.この分野を最期の舞台と思い定め,研究にも熱が入った.まもなく,まともな海外の学術誌に次々に論文が載るようになった.
53歳の時,高密度プラズマ中でのクーロン散乱の法則を発見した(4).この研究では,日夜,座標変換行列の多重積をもてあそんでいた.夕焼けの美しい日であった.突然,変形していた行列が美しい姿を見せ始めた.ボルツマン方程式の解法を発見して以来,16年ぶりに歓喜で胸が締めつけられた.また,この16年間自分はなにをして来たのかと,反省した.4年後,Bobylevと私は,私が発見したクーロン散乱の法則がLandau-Fokker-Planck方程式の解になっていることを証明した(5).これにより,この方程式の解法が63年ぶりに導かれたと言える.
プロセスプラズマの粒子モデル解析では,私の研究室は世界の研究拠点となったが,2006年に定年退職した.これを機に,私の学問と人生に対する熱い思いを一冊の本(6)にし自費出版した.本稿はこの本のあらすじと言える.
無一物に戻った私は,いま,ある研究テーマを胸に秘め,研究者として最後の歓喜を夢見ている.おわりに,昨年の晩秋,ある小冊子に寄稿した近況の一部を再録し,この稿を締めくくる.
『北上川に白鷺舞う』
このごろ,よく北上川下流へ魚釣りに行く.水辺には広大な葦原がある.その美しい姿に入れ揚げている.葦の丈は人の姿をすっかり隠して余りある.かき分けて歩を進めると,よしきりがあたふたと飛び立った.対岸では一羽の青鷺が川面を見つめ,思索にふけっている.葦の間から天を仰ぐと,濃いブルーの空に孤高の白鷺が舞っていた.
一陣の風が立ち,葦の穂がざわついた.葦原の真っただ中にひとり佇み,風のさやぎに身をまかせていると,無為徒食の今の人生が無限に豊かなものに思われてくる.
夕日が落ちるころあたりはほの暗く,葦原だけが金色に浮かび上がる.この美しさこそ,我が旅立ちへのはなむけか.
紫綬褒章(平成20年4月29日)
文 献