流れ 2008年9月号 目次
― 特別寄稿:「紫綬褒章受章に思う―私の歩んだ流れ研究の道」 ― ― 特集テーマ:「高クヌッセン数流れ(希薄気体流れからマイクロ気体流れまで)」 ―
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高クヌッセン数流れへの実験的アプローチ
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1. はじめに
流れの希薄度を表す無次元パラメータに,流体を構成する分子の平均自由行程λと流れ場の代表長さL の比で定義されるクヌッセン数(Kn=λ/L : Knudsen Number)がある.一般に,Knが0.01程度を超えると固体表面近傍で温度飛躍や速度滑りが生じ,0.1程度を超えると連続体近似ではなく原子・分子の流れとして扱う必要がある.平均自由行程が大きい場合には分子間衝突数が極端に減少し非平衡現象が発現し,代表長さが極端に小さい場合は流れ場が固体表面の影響を強く受ける.現象的には非常に面白いものが多いが,実験的に測定をする場合には原子・分子を相手とする必要があるために非常に困難を伴うことも多い.そこで,我々の研究グループで行っている実験的アプローチについて紹介したい.
2. 希薄気体流れにおける非平衡現象
超高真空中に噴出した超音速自由噴流中では,分子間衝突が十分でないために並進,回転の自由度間のエネルギー交換が十分に行われず,これらの温度間に非平衡が現れる.また,回転エネルギー分布そのものにおいてもボルツマン分布から逸脱することが報告されている(1,2). 後述の気体分子‐固体表面間相互作用の解析においては分子線散乱実験が広く利用されているが,分子線は超音速自由噴流の中心部を抽出して形成されることが多いため非平衡状態である可能性が非常に高い.分子線の回転エネルギー分布を明らかにするために,共鳴多光子イオン化(REMPI)法を利用した測定を実施している(1).
Fig. 1 Schematic energy level diagram for 2R+2 N2-REMPI |
REMPI法は高い検出感度を持ち,分光学的な非侵襲計測手法である.窒素分子線を対象にした2R+2 N2-REMPIにおいては,基底準位(X1S+)の窒素分子に2光子を吸収させ共鳴準位(a1Pg)へと励起し,さらに2光子吸収によってイオン化させる(図1).共鳴準位を介在させることにより一度に作用すべき光子数を減らしイオン化確率を高くすることができ,入射光強度が比較的高く共鳴準位へ励起された分子のほぼ全てがイオン化される条件においてはREMPIスペクトルから基底状態の情報を抽出することができる.REMPI信号の回転スペクトル線強度IJ’,J’’は,励起及び基底準位の回転量子数をそれぞれJ’,J’’とし,回転エネルギー分布がN(J’’)で与えられるとき,次式のようになる.
(1)
ここで,Cは比例定数,gは核スピン縮退度,Sは回転遷移確率(2光子Hönl-London因子)である.
窒素分子線に対して取得したREMPIスペクトルの一例を図2に示す(3).点は実験値,実線は等エントロピー膨張を仮定して求めた理論回転スペクトル,破線は回転温度を30Kとして求めた理論スペクトルである.なお,グラフ上部にREMPIスペクトルの波長と回転準位J’’の関係を表すFortrat線図を併せて示す.並進温度は等エントロピー膨張の理論値7.2Kとほぼ一致すると考えられ,回転エネルギー分布は明らかに異なる温度分布に従っていることが見て取れる.また,30Kの理論スペクトルといくつか一致しないピークが見られることから,回転エネルギー分布そのものが平衡状態にない可能性も否定できない.
Fig. 2 REMPI Spectrum of N2 molecular beam
3. 気体分子‐固体表面間相互作用
3・1 分子線散乱実験
気体分子が固体表面においてどのように散乱されるかの詳細を明らかにするためには,速度の揃った分子線を固体表面に照射して散乱してくる気体を計測する分子線散乱実験(4)が広く利用されている.これまで多くの場合,検出器として質量分析計を用いており,速度分布及び流束強度分布が測定されている.多原子分子の散乱においては分子の内部自由度も含めてエネルギー交換が行われるために,気体分子‐固体表面間相互作用を明らかにするためには内部自由度の情報が必要不可欠である.
そこで,前節に示したREMPI法による分子線の計測を発展させ,固体表面における散乱実験が可能なような実験装置を構築中である.これにより,相互作用におけるエネルギー授受のほぼ全情報,つまり入射前及び散乱後の並進エネルギー,回転エネルギー及び流束強度の角度分解した詳細なデータを取得することが可能になると考えている.
3・2 適応係数取得実験
高クヌッセン数流れでも特に系の代表長さが小さい場合,流れ場は気体分子が固体表面において受ける影響に支配される.熱流動場を明らかにするためには固体表面におけるエネルギー交換を明らかにする必要がある. 固体表面に入射した気体分子が,固体表面に完全に適応した後散乱すると,気体分子は拡散反射する.一方,全く干渉しない場合は鏡面反射となるが,一般にはこの中間の葉状(lobular)散乱となることが知られている.このときの物理量交換の割合は適応係数(5)で定義することができる.たとえば,エネルギー適応係数の場合は次式のようになる.
(2)
但し,Ei は平均入射エネルギー,Er は平均散乱エネルギー,Es は散乱分子が固体表面の温度と完全に平衡となった場合の平均エネルギーである.
適応係数の実験的測定は単原子分子気体と貴金属を中心に古くから数多くの研究がなされてきた.しかし,近年特に高クヌッセン数流れとして重要になってきているマイクロ・ナノデバイスの材料となる半導体や高分子材料などに対する測定はほとんど見られない.エネルギー適応係数の取得には非常に難しい問題が多いが,比較的簡便な方法で実現する研究を現在行っているところである.
4. 感圧塗料を用いた圧力分布測定
4・1 低密度気体流れ
感圧塗料(Pressure Sensitive Paint)(6)は.二次元圧力分布を容易に取得できる手法であり,定量的にも圧力孔などによる測定と非常に良く一致することから広く利用されている. PSPは,発光分子を含む塗料を測定表面上に塗布し,励起光を照射することによって発光させ,その発光が酸素分子によって消光される原理を利用している.つまり,発光分子と酸素分子の分子同士の直接的な相互作用を利用しているため,高クヌッセン数流れに対しても非常に有効な計測手法となることが考えられる.低密度気体流では消光量が少ないために揺らぎなどの影響を大きく受けることが想定され,PSPによる測定は困難であると考えられており,ほぼ1Torr (133Pa)以上の圧力域で利用されることが多かった.そこで,それ以下の低密度気体流れにおいても利用可能なPSPの開発を行った.
Fig. 3 Schematic image of PSP mechanism
低圧力域で利用できるためには発光寿命の長い発光分子と酸素透過性の良い高分子膜が必要である.様々な材料に対する特性調査の結果,発光分子としてPd(II) Octaethylporphine (PdOEP),高分子膜としてPoly [1-(trimethylsylil)-1-propyne] (Poly(TMSP))を選択すると,低圧力域でも十分な圧力感度を持ち,さらに発光強度の絶対値も高くS/Nの高い圧力測定ができることが明らかとなった(7, 8).真空中へ噴出する超音速自由噴流を固体表面に衝突させたときの表面上の圧力分布を図4に示す.貯気室圧10Torr,圧力比103である.低密度気体流で詳細に圧力分布が計測できていることが見て取れる.
Fig. 4 Pressure field of supersonic freejet
4・2 マイクロ・ナノ流れ
同じ高クヌッセン数流れであっても,マイクロ・ナノ流れへPSPを適用するのは,膜厚が5µm程度あることや発光分子の凝集がみられることなどから難しいと考えられる.しかし,原理的には分子間相互作用を利用した手法であり,このような流れ場においても有効な圧力計測手法となる可能性は高い.
そこで,Langmuir-Blodgett(LB)法を利用してPSPを分子膜化した感圧分子膜(Pressure Sensitive Molecular Film)を開発した(9).LB法は,水面に滴下した両親媒性分子が単分子膜状に広がる性質を利用し,広がった分子をバリアで圧縮して配座配向の揃った高秩序分子膜を作成する方法である.発光分子としては両親媒性を持つPt(II) Mesoporphyrin IX (PtMP)を用いた(10).実際に圧力感度を調査したところ,発光分子数の絶対量が少ないため発光量自体は少ないものの,圧力感度は従来のPSPと遜色ないものとなった.さらに,表面粗さはnmオーダーであり,マイクロ・ナノ流れにも適用可能であることが明らかとなった.流路幅170µmのマイクロ流路に適用した結果を図5に示す(11).発光量が小さいためノイズが見られるものの,定量的にも問題なく測定ができることが明らかとなっている.
Fig. 5 Pressure field of micro-channel
5. おわりに
高クヌッセン数流れに対する我々の実験的アプローチについて紹介した. これまでは主に希薄気体流れを中心に研究が進められてきた高クヌッセン数流れではあるが,今後はマイクロ・ナノ流れに関しても精力的に研究されるものと思われる.高クヌッセン数流れの研究は数値解析に比較して実験的なものはそれほど多くない.今後,実験的な解析が数多く実施されることを切に願っている.我々の研究がご高覧賜った皆様への何らかのヒントになれば幸いである.
文 献